『自分の影に対して、人としての責任のようなものを感じないわけにはいかない。果たして自分の影をこれまで正当に、公正に扱ってきたのだろうかと』
「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」が展開される元となった短編がある。
「街と、その不確かな壁」
今作とほぼほぼ同名のこの短編は出版化されていない。
読むことが叶わなかった作品が姿を変えてこうして祝祭感と共に世の中に顕現した。はっきりと、輪郭を伴って頁をめくれば確かに。整然と切り揃えられた紙の角が指にあたる。
『ああ、なんだか自分が美しい詩の数行になったような気がするからです』
なんて美しい文字列。
『そこはまさに草の王国であり、私はその草的な意味を解さない無遠慮な侵入者だった』
草的な意味。
うん。
「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」が足元のぐらつくファンタジーだとすると「街とその不確かな壁」は一連の倒錯の帰結のように思う。
《あの世界で出会って惹かれた図書館の少女》は今作を読むとその意味が変わり、
《深層心理で初恋の女の子が話してた街をそのまんま作って女の子を囲いこんで自分も囚われるがあまり、自分はなぜここにいるんだろう?という自問自答で辻褄を制御し記憶を手放した》になる。随分な倒錯っぷり。
街を作ったのは自分、女の子ともどこかで出会ってるんだろう、くらいの提示だったハードボイルドワンダーランドの壁の街を別角度から見せられて、私のあの世界は瓦解が始まる。もうひとつの、あの世界。
途中の章の「僕」はあの世界のたまりに飛び込み帰還した影のはずだ。現実でもそれなりに人間としてうまくできるかもしれないと、たまりで僕とふたつに分かたれた影。影のはずだけど「影は語る」ではなく僕そのもの。
僕と影が分かれていたキャラクターだったハードボイルドワンダーランドと違って、あの世界の少年の言葉を借りるならば、
「しかし本体であろうが、影であろうが、どちらにしてもあなたはあなたです」
だそうだ。
僕と影が切り離され、「影をうしなう」が「心を喪う」なら現実世界では心をなくしては生きられない。
僕はどこまでが僕なのか?その輪郭を探る。
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以下めちゃくちゃネタバレメモ
ハードボイルドワンダーランドでは壁の中の世界に残った僕。ずっと別の結末をあたためられていたと推測し、ハードボイルドワンダーランドのストーリー(結末)が入れ子になった別アンサーを本作とするなら、結末は壁の世界との決別を提示しているのだと思う。
追記
最後のシーンは死では、という視点の話
前回の帰る方法は『溜まりに飛び込む』
今回は『ロウソクの火を消す』
・河原での少女との邂逅シーン
・壁の中の世界は僕の作ったもの僕自身で、その火を消すということは
・そこから出ること(壁の世界との決別)はそれしかないのでは
・「そこから出た人間はいない、少なくとも生きてる人間には」的な子易さんの言葉
・子易さんは生前よりも目をまっすぐ見て話すようになった、いきいきと
僕は死のうと思ってない。喫茶店の女の子を待つつもりだし、おそらく、迷いのようなものはないと思う。
というのが逆に裏付けるような気もする。
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読み返し
上巻
『人と影が離れるなんて、なんだかおかしいじゃないか』
下巻
『この街は不自然で間違っている』
『何もかもが不自然で歪んでいるから、結果的にはすべてがぴたりとひとつにまとまってしまうんだよ。完結してるんだ』
『人間の行為というものが神によってあらかじめ決定されているか、それとも隅から隅まで自発的なものかということです』
『私の目から見れば心理科学にスコラ哲学的色彩を賦与したというにすぎんですな』
シャフリングシステムというのはブラックボックスをAで固定して呼び出せるもの、新たな体験が増えたらそれは変化しA'A"と間断なく変化するが思考システムAは保持される。
レビューで「何が言いたいのかさっぱり分からない」というのを見た。村上春樹が何を言いたいのかさっぱり分かる事などない。